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水牛に載せられたピアノ

昨日はピアニスト、ダン・タイ・ソンについて書きました。

今日は、彼の生い立ちと音楽環境について、もう少しお話ししたいと思います。

1958年生まれのダン・タイ・ソンのお母さんは、ハノイ音楽院ピアノ科の主任教授でした。

電気や水が確保されていたのは1965年頃迄ですが、戦闘機の音の中で彼は練習を続けました。

その後、戦争が激しくなり、彼はお母さんとそのピアノの生徒たちとともに、一つの村に全員で移り住みます。壁は土と竹の枠組み、屋根はヤシ葺き、天井と壁の隙間から空が見えるようだったそうです。

ソンだけでなく、お母さんの他の生徒さん達は、紙に書いた鍵盤をベッドに置き、戦闘機の音が激しい時でさえ、半地下のトンネルや防空壕の中でも指の訓練を続けていました。

しかし、ハノイから1か月かけて、水牛が引くワゴン車に乗せられて、アップライトピアノが、ソンの疎開していた村にやって来たのです!

空爆で橋が破壊されていた川を通ったなどの事情で、切れている弦や欠損しているハンマー錆び付いたペダルなど、それは酷い状態だったそうですが、ソンのお母さんの生徒さん達は、大喜びで丹念にそれを修理し、そのピアノを交代で1日20分ずつ弾くことで、楽器に触れられる幸せを手に入れました。

1975年にベトナム戦争が終結し、ソ連が発表した奨学金給付留学は、親が政府に認知された職業に就いている人しか認められませんでした。

そのことで、「詩人」という父親の仕事が、ソンの前途を阻むものであったため、政府の提案を受け入れ、両親はソンの音楽のために、離婚というを選択します。そして、1977年に彼はソ連へ向けて出国しました。

同氏は、2011年に行われたインタビューの中で、「50年前は見逃されるようなミスタッチが、今日では許されない。コンサートで用いられるピアノも違うものになっているため、より正確で高度な練習を行うことが求められている。」と語っています。

その中で、「スタインウェイ、ファティオリ、ヤマハ」といったグランドピアノの名前が挙がっています。「ヤマハ」の名前が世界の名器と並んで出てきたのは、日本人として、大変誇らしいことだと思います。

彼が幼い頃、お母さんがショパンコンクールの客席に招待を受けたということを、私は最近になって知りました。彼女は、ハノイ音楽院の設立者であり、ベトナムの音楽水準を上げるための努力が、並ではないレベルだっとことが伺えます。

そのときに母親がワルシャワから持ち帰った楽譜の数々が、後の彼の大きな原動力となったそうです。

彼のお母さんのインタビューが新聞記事に載ったのは2010年12月のことで、戦争という環境の中で、どうやって音楽を学ぶことが出来たのかということが、具体的に書かれていました。

当時すでに90歳を超えてらっしゃいましたが、話の合間にショパンを弾かれるなど、とても魅力的な音楽家の姿は変わってなかったそうです。


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