日本全国のピアノ教室が5000件以上掲載!

ヘンデルの実業家としての一面

皆さん、こんにちは。昨日は、1751年からヘンデルの視力が急速に低下し、1752年には完全に視力を失ったこと、そしてバッハと同じ眼科医による手術を受けたにもかかわらず、その効果がなかったことについてお話ししました。手術の具体的な時期を特定する資料が存在しないため、視力を失った原因が手術の失敗なのか、それとも視力を回復しようとした手術が成功しなかったのかは、はっきりとは分かりません。

視力を失った後も、彼は既存の作品の再演や即興演奏を通じて音楽活動を継続しました。しかし、1759年4月14日(復活祭の次の日)に彼は亡くなり、ウェストミンスター寺院に埋葬されました。

彼が亡くなったとき、銀行の残高は1万7500ポンドとされており、その金額は現在の日本円で約2億から3億円(あるいは6億円)に相当すると言われています。これは、ヘンデルが音楽家としての素晴らしい才能に加えて、実業家としての力量も持っていたことを示しています。

ヘンデルは大きな財産を築きましたが、それを自分だけのために使うことはありませんでした。彼はロンドンに新しく設立された孤児院の運営資金を集めるために慈善コンサートを開催し、その収益を寄付しました。また、彼は毎年遺言を更新し、遺産の分配を計画していました。

彼の遺産の半分は姪のヨハンナに遺されましたが、残りの部分はドイツの親戚や友人、知人、さらには使用人にまで分け与えられたと言われています。これは同年生まれの作曲家、バッハとは全く異なるヘンデルの一面です。また、バッハが二度結婚し20人の子どもを設けたことと、ヘンデルが一生涯独身を貫いたこともよく対比されます。

バッハは音楽一家の中に生まれましたが、ヘンデルは音楽とは無縁の家庭で父親の反対を押し切って音楽の道を切り開きました。ヘンデルが常に音楽の最先端を求め、社会的活動にも精力的であったことは、このような生い立ちにも影響されているのかも知れません。

彼は、古典派時代以前に社会的にも経済的にも成功を収めた数少ない作曲家の一人でしたが、彼は投資家でもあり、また、出版社との共同作業が彼の作品を大いに流通させ、確実な報酬を約束したのは間違いないと見て良いでしょう。

ヘンデルの作品の大部分が同時代のさまざまな出版社から発行されたという事実は、こういった背景を知っていると不思議なことではないことが分かるでしょう。その中には、表記が違ったり、楽器編成が異なっているものが幾つかあるため、後世の私たちが楽譜をどう扱うかに関しては知識と注意が必要なのです。

これで、ヘンデルに関するブログは終わりになります。次からはまた新しいトピックでお会いしましょう。良い一日をお過ごしください。レッスンにご興味がある方は、「ウィステリア・ピアノクラス」で検索して、ホームページからお気軽にお問い合わせください。


↓お問い合わせは、こちらからどうぞ!↓
↑体験レッスンお申し込みも、こちらからどうぞ!↑

このブログへのコメント