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カール・フィリップ・エマニュエル・バッハ:ポツダムからハンブルクへの転身

みなさん、こんにちは。今日はカール・フィリップ・エマニュエル・バッハが宮廷音楽家から町の音楽監督へと転職した「ポツダム脱出」についてお話しします。

バッハは何度もポツダム脱出を企て、ついに54歳で新しい地位を得ることに成功しました。それは、1721年からハンブルクで街の音楽監督として君臨していた、バッハ自身の名付け親でもあったテレマンが亡くなった後のことでした。バッハはこの大いに注目されたポストを射止め、ポツダムの宮仕えから解放され、晴れてハンブルクへと移りました。

ハンブルクでは、教会における年間200回もの演奏会、市の行事のために求められる音楽など、多くの公式の作曲活動に加え、自主演奏会シリーズや自作の出版事業でも成功を収め、名声が大いに高まりました。ちなみに、18世紀後半に「バッハ」と言えば、こちらの大バッハの息子を指すのが一般的でした。

明日は、エマニュエル・バッハの「多感様式」について、一緒に見ていきましょう。レッスンにご興味がある方は、「ウィステリア・ピアノクラス」で検索して、ホームページからお気軽にお問い合わせください。


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