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蕎麦をすするときの音 3 (完結編)

皆さん、こんにちは!
さて、前回は「何故、日本人は蕎麦をすするようになったのか。」についてお話しました。
今日は、「いつ頃からどのように蕎麦をすするようになったのか。」ということを、その文化的背景に焦点を当てながら、音楽との関連ということも含めてご一緒に考えてみたいと思います。
蕎麦をすする行為の発祥起源は、江戸時代の江戸(現在の東京)にあると広く信じられています。江戸には商売をするために多くの人々が地方から流入しており、彼らは凌ぎを削り合う激しい競争社会で生き抜くことを余儀なくされておりました。彼らは多忙を極めていたため、仕事の合間に短時間で食べられるものを好んでいました。江戸の蕎麦はそれに適していたらしく、注文するとサッと出されて、客はササッと食べてはパッと出て行くのが常だったそうです。
しかも、蕎麦の前から既に存在していた「うどん」より栄養価が高いこと等により、江戸の蕎麦はビジネスマンの中でたちまち人気メニューとなったのです。そのため、これまで沢山あったうどん屋が蕎麦屋に転身し、江戸の蕎麦は遂には「江戸名物」の地位まで得るほどになりました。この時代の社会にあっては、音を立てて食事をすることは無作法なこととして認識されていました。ということは、蕎麦がすすられて食べられていたわけではなかったということになります。
では、いつから蕎麦がすすられて食べられるようになったのでしょうか?
それについて調べていくうちに、次のことを知りました。
則ち、当時、江戸の蕎麦屋の客の多くは男性だったということです。
それには、前述した通り、職人や商人などが仕事の合間に素早く食べるために立ち寄ることが多かったこという事情もありますが、どうもそれだけではなかったようです。
当時、かけ蕎麦は、「ぶっかけ」という汁ものをかけた食べ物の仲間とみなされていた風潮があったようです。「ぶっかけ」というものは、女性とっては下品で無作法であると考えられていました。ですから、江戸においては「蕎麦は男が食べるもの」と見なされる風潮があったのです。そういったジェンダーのこともありますが、もう一つ面白い事実がありましたのでご紹介します。
当時の蕎麦屋に設置したあったテーブルは背が低かったため、麺を箸でつかんで口元に運ぶまでに麺は伸びた状態になりがちでした。慌ただしく食べる人が多かったとういう事情により、彼らは一気に麺を吸い込んだ後それを口中で冷ますために息をかけ、その際に吐き出した呼気をすすって食べていたのです。忙しい最中に立ち寄る客に提供されていた料理なので、麺は短い方が合理的と思うのですが、事実は逆でした。当時の蕎麦屋は、「どれだけ長い蕎麦を作れるか」を競い合っていたのです。客はその競争に呼応すべく、ズズッと大きな音を立てつつ長い蕎麦と格闘しつつ食べていたのでしょう。
さて、私はここで新たな疑問に直面しました。
それは、「盛り蕎麦」のように、冷たいつけ汁につけていただく蕎麦をすすって食べる行為に関するものです。
関西においては、「盛り蕎麦」や「ざる蕎麦」よりも汁に入った「かけ蕎麦」の方が好まれていたため、前者であっても「つゆ」に浸して食べるやり方が主流でした。一方、関東にあっては、武士は「盛り蕎麦」を、町人は「かけ蕎麦」を、そして農民は「うどん」を好んで食べる傾向がありました。江戸での盛り蕎麦の食べ方は、長い蕎麦の先をほんの少しつけ汁に付けるといったもので、この食べ方をすると、蕎麦だけが先に口に入り、蕎麦の味を十分に楽しんだ後、蕎麦の先に汁が付いた麺が口の中に入ることになります。この方法は蕎麦本来の旨味を堪能できる上に、見た目としても美しい食べ方として、江戸に住む男性の間では密かなブームになったそうです。言うまでもなく、この食べ方の流儀によると、薬味など他のものを入れることは許されません。しかし、経済的に苦しく身分も低かった人々は、大根おろしや種々雑多の薬味などをつけ汁に入れて、それを麺にかけて混ぜて食べていたのだそうです。そうすることによって、満腹感が得られやすくなるからでしょう。
このような事情から、麺をすすって食べ始めたのは、江戸っ子文化の創始者である「町人」であると考えてほぼ間違いないでしょう。
江戸っ子という言葉から多くの人は「江戸生まれの人」を連想するのではないでしょうか。しかし、実際には「江戸生まれの先祖を持つグループ」と「仕事のために地方から移住して来たグループ」に分けられ、前者は「元祖江戸っ子」、後者は「自称江戸っ子」と称されることがあります。
「元祖江戸っ子」の中には、武士が好んだ盛り蕎麦を、武士のように優雅に食べることに憧れていた人々が少なからずいたと推測されます。一方、「自称江戸っ子」は、彼らは江戸とは異なる故郷の文化や地方ならではの価値観を捨てることなく、ビジネスにおける競争が激化していた江戸で成功することに明け暮れていました。そこに参勤交代でやって来る地方色の強い武士たちが加わり、江戸では江戸出身者以上に地方出身者の数が増え続けて行ったのです。地方から江戸に移住した「自称江戸っ子」は、江戸時代の中期以降、寛政期の後に登場し、町人文化が開花した文化文政期に勢力を拡大していったと言われています。そして、元祖江戸っ子よりも自称江戸っ子の数が上回る時期に来ると、「元祖江戸っ子の生み出した伝統的なダンディズムの性格を持つ美学から、庶民的な価値観を持つものへの変遷」が見られることになります。
江戸の蕎麦屋で音を立てて麺をすするのが当たり前になったのは「江戸時代後期とされているので、「蕎麦をすする習わしは、地方からの移住者である自称江戸っ子によって広められた」と考えて良いでしょう。無作法とされていたこの食べ方を敢えて貫いたことを通して、彼らは盛り蕎麦を美しく粋に食べる武士や元祖江戸っ子に対して、これまで蔑まれてきた自分たちの在り方に対する反骨精神を表明したのかも知れません。
このことは、ヒップポップに代表される多くの路上文化的な音楽が社会における差別や逆境を乗り超える過程で誕生してきた歴史にも似ています。当時としては大都市であった江戸にあって、逆境にあった人々の全てがこうした生き方を選んだわけではないとしても、「江戸っ子を自称した人々」の中には、社会的身分を超えた人権意識や、不条理の中にあっても尚、成功に向かって努力を続けるだけの気概があったのではないでしょうか。
こうした事柄を背景に持つ「蕎麦をすする行為」も、やがては明治時代の到来と共に否定されるようになっていきます。それは、明治政府と当時の人々が、音を立てて食べることがマナー違反とされる西洋文化を盲目的に称賛したからです。それでも尚、現代の日本人の間で「蕎麦をすする」という習わしが受け入れられているという事実は、自称江戸っ子の精神を引き継ぐ人々によって、「西洋文化に盲従するのではなく、江戸の流儀に誇りを持って大きな音を立てながら蕎麦を食べようではないか」という精神が尊重され、子孫の代まで伝えられ続けてきたからに違いありません。
「蕎麦をすするときの音」には、伝統的音楽の均衡と秩序の支配からの離脱を宣言した前衛音楽と共通するものがあるように思います。様々な文化の中で生まれた性質の異なる音楽を受け入れるのと同じように、マナーをはじめとする食文化の違いを理解した上で尊重する者でありたいと願っています。


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