ブランデンブルグ協奏曲
街で真新しいリクルートスーツ姿に履きなれないパンプスで歩く就活生を見かけます。入りたい会社への熱い思いを胸に頑張っているようです。
さて、ヨハン・セバスティアン・バッハも1717年から23年間、ドイツのケーテンで宮廷に勤務して給料をもらうサラリーマンでした。
しかし、自分の才能をもっと開花させるためにも、そしてバッハ家の経済的問題解決や自らの信仰のためにも、もっといい職場が欲しい…。彼はもっと条件の良い働き口を探して、常に転職を試みました。
この《ブランデンブルク協奏曲》は、バッハのその就職活動のために作曲されたといわれています。原題は“種々の楽器のための6曲の協奏曲”ですが、当時のブランデンブルク辺境伯に献呈されたことから、この名で呼ばれるようになりました。
第1番は小型ヴァイオリンの独奏と弦楽器、木管楽器、金管楽器のかけあい
第2番はヴァイオリン、トランペット、オーボエ、リコーダーの4種類の独奏楽器
第3番は独奏楽器がなく、弦楽器のアンサンブル風
第4番は2本のさわやかな独奏リコーダーとヴァイオリンの組み合わせ
第5番はチェンバロが主役の華やかな曲 後のピアノ協奏曲の草分け
第6番はヴィオラ・ダ・ガンバが支える高貴な曲
特に第5番はチェンバロ(ピアノ)が主役です。今まで通奏低音(アンサンブルを支える伴奏)の役割だったチェンバロを、独奏楽器として鮮やかに前面に出し、モーツァルトやベートーヴェン時代のピアノ協奏曲のさきがけとなりました。現代ではチェンバロのパートをピアノで弾かれることも多く、これもまた違う魅力があります。
《ブランデンブルク協奏曲》は、ケーテン時代のバッハが新天地ブランデンブルグ(ベルリン一帯を指すプロイセンの古い呼び方)を目指した意欲作です。6曲がそれぞれ個性的でバラエティーに富んでいることが当時としては破格で、バッハの並外れた才能を物語っています。
しかし面白いことにバッハ渾身のこの曲は、就活曲として筆に力が入っていて、どうも当時の宮廷合奏団には難しすぎたようです。現代で言うと、履歴書の自己アピール欄に延々とこの大曲が連ねられた感じでしょう。彼の転職先は結局ライプツィヒの聖トーマス教会の音楽監督に落ち着くのですが、そこであの《ヨハネ受難曲》《マタイ受難曲》が生まれることになります。
就活大成功。
熊本市
東区健軍ハートピアノ教室
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