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バッハの息子ヴィルヘルム・フリーデマン・バッハ【後編】

安芸郡府中町たなべピアノ教室です。

前回はフリーデマンが、就職したところまでお話ししました。

1750年に父親ヨハン・セバスチャン・バッハが亡くなると次第に彼の人生は変わり始めます。

ハレという街は、教条的な敬虔主義の支配下にあり、 父親もそうであったように、フリーデマンにも、そのような熱心な敬虔主義者として 仕えることが自然と求められるところがあり、 そこに息苦しさを感じ、度々街を抜け出すなどし始めます。

そのことにより、雇い主との関係が次第に悪化していきます。

1756年から始まった七年戦争。 ハレの街は荒廃し、フリーデマンは生活にも不満を覚えるようになります。

 ハレにはその後1770年までとどまり、1774年ベルリンに居を構えます。

ベルリンではオルガン演奏の機会が与えられ、フリードリヒ大王の妹アンナ・アマーリア公妃から の支持を得て、有力で有能な弟子をもち、アマーリエ王女に曲を進呈したりもします。 しかし、旧知の間柄の音楽教師J.Ph.キルンベルガーの後釜におさまり、 宮廷作曲家の地位を得ようとしたという噂が広まり、次第に信用を失っていきます。  

結局1764年、無断で職を放棄し、以後20年間、亡くなるまで定職に就くことはありませんでした。

父親の遺産の楽譜を売り払ってしまったり、父の作品を自分の作品と偽ったり、またその逆もあったとのことです。


18世紀後半に フリーデマンほどオルガンの即興演奏に長けていた人はいなかったはずですし、 対位法を楽々と使いこなし、情感をたたえた絶妙なホモフォニックな作曲における書法も 追随を許さないものがありました。

が、時代はとっくにギャラント様式などに代表される平易で明るい作風が求められる時代を迎えていました。

フリーデマンは父親の作風を受け継ぎ、それに自身の個性を加えることはしたものの、 新しい時代の空気に安易に迎合されることは拒み続けました。

彼の音楽には、時代を超えた魅力が放たれています。

   
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