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適正な競争心とは何か①

 コンクールたけなわの季節です。この季節に「適正な競争心とは何か」と題し、何回かに分けて考察してみたいと思います。

 一時期、我が国はゆとり教育なるものがもてはやされ、過度の競争を否定し、学習内容を大幅に削減し、みんなが100点を取れるような一見平等な社会を目指しました。1990年代末から、文部科学省大臣官房審議官(生涯学習政策担当)などの立場にあった寺脇研氏の旗振りによって推進された、現在では様々な批判を受け、見直されつつある政策です。
 その結果、教育現場ではどのような珍光景が見られるようになったかというと、小学校の算数では、誰でも計算ができるように円周率3.14を3で教えてみたり、徒競走で誰でも1番になれるように、運動会では足の速い子と遅い子を時間差を設けてスタートさせたり、違う距離を走らせたりして、手をつないで同時にゴールさせるというようなバカバカしいことまで行われていたと聞いています。少しでもプライドのある子なら、速いか遅いいかの立場にかかわらず、むしろ自分を否定されたと傷付くのではないかと私は思いますが、みなさんはどう思われるでしょうか。

 これではいけないと考えた親御さんたちは、以前にも増して学力を塾の方に頼るようになり、その結果、皮肉にも過度の受験競争から守られたのは、経済的に塾へ通わせられない低所得者層の子供達だけという状況になってしまったようです。学校に期待できない分、親の経済力格差が子供の学力格差になってしまう現実がここに現れてきました。

 私は理想の社会のあり方として、結果の平等は保証できなくとも、チャンスの平等は保証すべきだと思います。さらなるプラスアルファを求めて、塾に通える子は通えばいいですが、教員や学校にも適正な競争をしていただき、公教育の教育水準をきちんと維持していただかない事には、貧しい家庭の子にはチャンスがなくなってしまうではないかと心配です。
 ただしチャンスの平等に対し、その後の努力の結果というものは、原則は努力の質と量に対して現れるものなのですから、例え格差が生じたとしても、教える側はそのことをキチンと子供達に教えるのと同時に、評価は平等ではなく公平にしてあげなくてはなりません。
 そして教師は質に対しては、全面的に頼られてよい存在なのですから、子供達が努力するためのチャンスを平等に保証してあげるためにも(つまり塾に頼らなくても良いように)、その維持・向上に対して常に責任があると自戒していなくてはなりません。

 最近になってやっと日本の子供達の学力低下、企業の国際競争力の低下等が問題視されるようになり、このままでは国が衰退してしまうとの危機感から、ゆとり教育路線は見直され始めています。果実が実るまでわからない愚かさがここにあります。
 世間ではいまだによく「格差社会は悪だ」との論調を耳にしますが、私は「チャンスの平等が保証されない格差社会は悪であるが、努力の質と量の差によって現れる格差を、公平に評価できない嫉妬社会も悪である」と、敢えて申し上げたいと思います。努力してもしなくても結果の平等を保証する社会が、決して理想の社会の姿ではありません。

 今回は音楽教育界の話題には触れずに、一般的な話題からのアプローチとなりましたが、ゆとり教育の教祖、寺脇研氏が私達の世界に多大な影響を与え、現在も継続中の問題があると思われますので、次回、そこに際どい球を投げ込んでみたいと思います。ご期待下さい。 つづく。


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