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☆疾風怒涛期と古典主義☆ベートーベン♪ ☆

みなさま今晩は♪  ドイツ古典派の作曲家、、、または、音楽の表現に至るとき、、、ドイツの、当時の
運動は、ロココと啓蒙主義に対抗する反抗では有ったが・・・・。。。などなど。。。当時の社会的ムーブメント!
などと、のんびりも言ってられないくらいの きっと時代。。。わたしは、☆ 主にドイツのこの時代については、

家人の方が、ドイツ哲学の専門も有り、いつも(・・・ヘルプ!♪・・)をだします (*_*) 調べるのも限り有るときは
わたしの、ある意味分野が異なっても、時代の☆ おおきなうねりの中での★自己爆発?・・または、表現★
ときどき、ヘルプを出します!(^^)!
ここからは、ある教本の一節☆☆☆・・・生徒と共に、声に出して読みながら、途中で涙がこぼれそうに。。。

引用文からです☆ ウィーンに出たベートーベン☆  

ドイツの西部を流れるライン河西岸に、古くからの小さな都、ボンがあります。ベートーベンは1770年にその地
に生まれました。ベートーベンの父ヨハンは宮廷のテノール歌手でしたが、意志が弱く、毎日、お酒ばかり飲んで
いました。しかし、母マリア・マグダレーナは優しい人で、貧乏に耐えながら子供達を育てました。幼い2人の
弟達をかかえながら、ベートーベンは、母親と共に一家の柱となる心構えを養われました。 少年ベートーベン
は、父や、父の知り合いの宮廷の音楽家たちからピアノの手ほどきを受け、バッハ父子の素晴らしい楽譜に
接することも出来、彼の胸は音楽への夢でいっぱいになりました。 16歳になったベートーベンは、遂に憧れ
のウイーンへ1人で出かけることになりました。ウイーンボンよりはるかに豊かな音楽の都市でしたし、有名
なモーツアルトも、そこで活躍していたからです。望み通り、モーツアルトの前では主題をもらって即興演奏し、
モーツアルトを驚かせました。 しかし、まもなく、母親の病気が悪くなった知らせで、ボンに帰らなければ
なりませんでした。愛する母マリアは苦労のうちに死に、ベートーベンはがっかりしてしまいました。彼はボン
の宮廷オルガニストの仕事をして、一家を支えねばなりません。まだ、2人の弟を抱えて前にもまして、酒に
おぼれる父親をもてあましながら頑張りました。 ウイーンの空気にふれてきたベートーベンにとって、母
のいないボンは勉強のためにも、生活のためにも張り合いのない土地となりました。 こうして、5年ののち
ワルトシュタイン伯爵などのほねおりで、2回目のウイーンゆきが実現したのです。これから本格的に勉強
しようとするベートーベンは、22歳になっていました。・・・以後 数多くの貴族から援助を受けるも、仕えること
無く、自己の芸術的良心にのみ従って作曲に専念した・・・と。 近代的自由芸術家として立った最初の音楽
家で有った・・と。その後に押し寄せるたくさんのハンデイと共に、自由を勝ち取る苦悩・・・。続は^^また♪ ♪


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