八千代市かじあきこピアノ教室
八千代市かじあきこピアノ教室
天真爛漫な子供時代
「あっこちゃんが肌着とパンツ一丁で川で魚釣りをしているわよ〜。」とか、「あっこちゃんが木の葉を持ってうちの店にノートを買いに来て困っています。」といった苦情が自宅に入り、両親が迎えに行くという、そんなちょっと夢見がちな鹿児島生まれの女の子でした。
(※木の葉を持って買い物に行ったのは、「タヌキの手習い」という物語を読み、木の葉をお金と思い込んでしまったから。)
子煩悩だった父が、毎晩寝物語として聞かせてくれる「せむしの仔馬」や「チビの仕立て屋さん」、「小夜啼鳥」などの外国の珍しいお話に耳を傾け、いつしか見知らぬ国に憧れを抱くようになりました。
鹿児島に外国船が着くと、観光している外国人にこっそりついて行くような好奇心旺盛な子供でもありました。
小学校時代、ピアノと英語
小学校に入り、3歳から通っていたヤマハ音楽教室から個人のピアノ教室に移ります。
先生は県内一厳しいと評判の方で、練習が不十分だとレッスンは即終了。
しかし、ちゃんと練習していれば長時間見てくださる、弾く順番は決まっているがレッスン時間は決まっていないというレッスンでした。
練習嫌いの私はいつも△(=やり直し)ばかりもらい、怒られてばかりいましたが、先生は出来ない時は全力で怒り、また出来た時は手放しで褒めてくださる人間味あふれる方でした。
また、私の母も世間では厳しいピアノの先生として通っていましたが、私に直接指導したり練習を強制することはなく、その代わりに海外の著名なピアニストのコンサートによく連れて行ってくれました。
コンサートでの感動を胸に帰宅すると、私はレコードをかけて、なんとなくピアノで弾けるところを「じゃ〜ん」とならして悦に入ったり、歴史の先生だった父がそのピアニストの出身国の歴史を教えてくれたりして、自由な見方で音楽を楽しんでいたように感じます。
また、ピアノよりも体を動かすことの方が好きで、運動会では小1から高3までリレー選手でずっとアンカーを務め(小学校の運動会では裸足でかけっこ!)、学校代表として水泳記録会や陸上記録会の選手に選ばれたり、冬はフィギュアスケートを楽しんだりしていました。
そして小6の2月、私にとって運命の出会い…英会話のメイソン先生ご夫妻に出会います。先生はアメリカの大学院に戻るご予定だったので、残念なことに5ヶ月間しか教えていただけませんでしたが、初めて英語を口にした時の喜びと感動は今でも忘れられません。2年後の先生のご帰国を待ちわびながら中学生活が始まりました。
中学時代、ピアノか英語か?
中2になり、音楽の道に進むなら東京の音楽高校を目指してみてはということになり、月に1回東京でレッスンを受けることになりました。
最初は母と一緒に通い、慣れてきたら1人で行くようになりました。
自分の幼稚さや覚悟の足りなさ、練習不足などが原因ではありましたが、通ううちに先生の細かいレッスンに対して楽しさが消え、苦行に感じるようになってきました。
そしてもし、音高に合格出来たとしても、今後7年間をこの先生と一緒に過ごすのはとても耐えられないと思いました。
また、母や先生、友人達がいつも真剣にピアノに向き合っている姿を見ながら、自分が生半可な気持ちでやるのは適切でないと感じました。
「メイソン先生も帰国されるし、私はピアノよりもやっぱり英会話がやりたい。
そして将来的には留学もしたい。」と両親に伝え、中3の夏、ピアノのコンクールをもってピアノを辞める決意をしました。
高校時代〜暗黒時代
高校に入り、待ちに待った英会話を再開。
洋楽、映画、アメリカの文化、日常生活などについて皆で語るのは本当に楽しい時間でした。
そして、「とっても楽しい所だから、一緒においでよ〜。」と図々しくも関係のないお友達まで誘って学校帰りに連れて行くこともありましたが、先生は嫌そうな表情ひとつ見せることなく、「どうぞ、どうぞ。」といつも温かく迎えて下さいました。
レッスンでは、先生から「日本人は分からなくなるとすぐに黙る、それはよくないよ。何でもいいから話しなさい。」といつも口を酸っぱくして言われていました。
当時はその意味がよく分かりませんでしたが、後の自分の人生において何度となく助けとなった言葉でした。
高2になり、学校生活の方は暗黒の1年間に。
クラス替えで前後の席になった人気者のSちゃんと仲良しになりました。
そこに同じ中学出身のMちゃんが私のところにやって来て、「クラスに友達がいないから一緒にいてほしい。」と言われました。
ところがSちゃんからは「Mちゃんは嫌だ。」との返事。
私は悩んだ末、「Sちゃんは他にもお友達が沢山いるから大丈夫だと思う。でも、Mちゃんは1人になってしまうから、私はMちゃんと一緒にいるね、ごめんね。」と伝えました。
しかし、数週間経つと、そのMちゃんは他のお友達と親しくなり、私は置いてけぼりを食うようになったのです。
思春期真っ只なか、ショックと混乱と悲しみが一度にやってきました。
周りを見渡せば既にグループが出来ており、今更どのグループにも入れる余地はなさそう。
無理にクラスにお友達を作る必要はないと自分に言い聞かせ、特定の友達を作らずになんとか1年をやり通すことが出来ました。
高3のクラス替えで、同じクラスに仲良しのお友達の名前を見つけた時には正直ホッとしました。
アメリカへ、ピアノが武器に
高校卒業後、渡米。
サウスイーストミズーリ州立大学に入学。
入学の際に、いきなり心理学や歴史などの英語の負担の多い教科ばかり取るのは大変だから、数学や美術、スポーツなどうまく組み合わせて授業を取るようにとアドバイザーからアドバイスされ、ピアノの個人レッスンを取ってみることにしました。
その学期の終わりにピアノの先生から「来学期、コンクールに出てみない?」と誘われ、ミズーリ州ピアノ教育連盟主催のコンクールに出場し、優勝しました。
このことがきっかけとなり、それまでは「留学生→アジア人→日本人→Akiko」と親しくなるのに何クッションもおかなくてはならなかったのに、コンクール以降は「Akiko=ピアノを弾く子」に変わり、「今、何弾いてるの?」とか「今度、伴奏頼めるかな?」と声をかけられるようになり、友達も増えていきました。
音楽は世界共通語で、この時ほどピアノが弾けてよかったと感じたことはありません!
ほどなくして、先生からもピアノ専攻を勧められ、あまり練習熱心ではないし、中学以来長いブランクもある、ただでさえ大学の授業についてゆくのは大変、文化交流も大事にしたい…と悩みましたが、自分の出来る範囲の中で「ピアノ科で卒業」ということを一つの区切りとして終えるのもいいかもしれないと思い、ピアノ演奏科に進みました。
そして、母や伯母、また、親しい友人達に囲まれての卒業演奏会は私にとって喜びと感謝の瞬間になりました。
卒業後は国際協力関係の仕事に就きたいと考えていましたが、卒業前年の夏にオーストリアのピアノの講習会に参加し、その時に教えていただいたG.ケルン先生のレッスンに感銘を受けます。
それまでは自分の思いをのせるだけでしたが、先生のレッスンは、作曲家の特徴を捉えた上で、自分らしさをそこに加える、まさに英会話のような、作曲家と対話をしているような気持ちになれるそんなレッスンでした。
遅まきながら初めてピアノそのものに覚醒した私。寝ても覚めても先生のことが忘れられず、「卒業したら貴方の元でレッスンを受けたい。」と思い切って連絡をしました。
今度は、ウィーンへ。英語が武器に。
卒業後、渡欧、ウィーンへ。 入試はピアノ、楽典、ソルフェージュ、エッセイでした。
その楽典の試験中、どうしてもドイツ語の意味が分からない問題があり、たどたどしいドイツ語で「問題の意味が分からないので説明して下さい。」と思い切って試験官に尋ねました。
しかし、その説明も分かりません。
その時、英会話の先生の、「日本人は分からないとすぐ黙る、何でもいいから話しなさい。」という言葉が頭をよぎりました。
問題の意味が分からないまま落ちて後悔するのであればダメ元で食い下がってみようと、皆が一斉に振り返り私を注視する中、いちかばちか、「あの〜、英語で説明してもらえませんか?」と聞いてみました。
思いに反して快く英語で説明して下さり、問題を解くことが出来たのです。
そして、幸運にも合格! ザルツブルク・モーツァルテウム大学 音楽教育科のG.ケルン先生の門下生になりました。
英語とピアノの二足のわらじ
帰国後は地元鹿児島に戻り、子供達に英会話教室で教える傍ら、コンサートに出演したり、保育園を訪問したりしてボランティア活動に努めました。
また、海外の著名なアーティストの公開レッスンやレセプションで通訳をする機会にも恵まれました。
ソビエト時代、秘密警察に屈せずに音楽活動を続けたウクライナ人、自由に演奏活動をするべくフランスに亡命したアゼルバイジャン人、ホロコースト生還者のユダヤ系ハンガリー人ピアニストなど…そこには命がけで守ってきた自分の音楽があり、一音一音が真剣勝負であり、発する言葉には重みがありました。
このような方々と接する機会を得たことは、私の人生においても貴重な経験となりました。
結婚で八千代市へ
結婚し、現在は千葉県八千代市で夫と2人暮らし。
生徒さん達の笑顔に会えるのを毎日楽しみにしています。
時折、「先生、今日はお友達を連れて来た〜!」とレッスンにお友達を連れて来る生徒さんがいたり、「先生の家に泊まってみたいな。」と家に泊まりに来た小6男子もいます。
そのたびに若かりし頃の自分に会えたようでどこか懐かしく、そして嬉しくなります。
幼い頃に異国文化に対して抱いた憧れから広がっていった私の世界〜 自分の経験を通して、「自分力を育む」=周りの空気に左右されずに1人で行動出来る強さ、物事に対し一歩踏み出す勇気、自分が今持っている能力を最大限に生かし、何とかしてその場を乗り切る対応力を持つことが大事だと思います。
自分のままでいられる、自分を思いっきり表現できる、そんな体験が一人でも多くの子供達に届けられるようにと願いながら日々レッスンに励んでいます。
「初めての生徒さんとばあば」
近所に住む、3才になる目のクリっとした坊主頭の男の子J君は、ばあば(おばあちゃま)に連れられてやって来ました。
お母さまと3人暮らしで、ばあばは忙しいお母さまに代わり、家事育児を一手に引き受ける肝っ玉ばあさん。
時に昭和のご意見番として世の行末を憂い、また「先生、大変でしょう〜。」とよく夕飯のおかずを差し入れてくださる、私にとって”千葉の母”のような頼りになる存在でした。
そのばあばが、J君が6年生の時に突然亡くなってしまいました。
夕飯の下準備を済ませた後少し横になっていたのですが、息をしていないことに気づいたJ君は慌てて救急車に連絡。
到着を待つ間も指示を受けながら心臓マッサージを施しましたが、その甲斐もなく帰らぬ人となりました。
たった1人で死と向き合わなくてはならなかったJ君、どんなに不安で怖かったことでしょう!!
「レッスンは気持ちが落ち着いてからでいいからね。ムリしないで。」と伝えたけれど、葬儀が終わった週には来てくれました。
数ヶ月後にあった中学受験にも見事合格、本当によく頑張りました。
ピアノのレッスンもそのまま高校3年生まで通ってくれました。
その頃には、「あ〜、第2の家だ〜、落ち着く〜。」と言いながらピアノではなく、ソファーに直行していましたが・・・!
「レッスン最後の日は卒業証書とか、花道とかあるんだよね?」とリクエストされ、手作りの卒業証書と後輩のお見送りつきの小さな卒業式をしました。
その後も発表会を手伝ってくれたり、生徒さんにとお菓子の差し入れを届けてくれたりして、今ではとても頼りになる存在です。
現在、教師を目指して奮闘中、とても思いやりのある立派な青年に成長しました。
そんなJ君のことを誇りに思っています。(きっとばあばも!)
「帰り道診断」
自宅の先に曲がり角があり、私は生徒さんを見送る際にいつも心の中で「帰り道診断」なるものをしています。
一概には言えませんが、角に向かって道に沿ってきちんとした足取りで歩いて行く子供は真面目で優しい印象があります。
一方、斜めに突っ切ってショートカットする子供は、元気で活発なイメージです。
また、角に差し掛かった時に振り返って手を振ってくれる子、笑顔の子、そのまま行ってしまう子、そしてその時のレッスン次第の子(→分かりやすい!)など、様々です。
思春期に入ると、振り返らなくなる子もいますが、精神的に落ち着いた時期になると再び振り返る子も多く、一つの成長の証として私の目安にもなっています。
その中で、いつも足取り軽く、角を曲がる時に大きく手を振って最高の笑顔で帰っていくMちゃんの姿が、私の心にずっと残っています。
最後の瞬間まで、私もMちゃんのようなとびっきりの笑顔で生徒さんを見送りたい!
「ぬいぐるみ」
引っ込み思案のAちゃん。幼稚園生の頃は私が話しかけると、隣にいるお母さまに耳打ちし、お母さまが代わりに話してくれるという、まさに巫女さまのようなレッスンでした。
小学生になると1人で来るようになりましたが、毎回違う手のひらサイズのぬいぐるみを持って来るようになりました。
上手に弾けた時はぬいぐるみが嬉しそうに飛び跳ね、上手くいかなかった時はぬいぐるみが残念そうな表情をします。
驚いたことに、Aちゃんは何百個ものぬいぐるみを持っていて、それぞれに名前とストーリーがあります。
こうして彼女との間に少しずつ会話が広がっていきました。
見過ごされがちな小さなものにも、Aちゃんはスポットライトを当ててあげる姿勢を持っていて、私も生徒さんと接する上で、どんなに小さなことでも見逃さない先生でありたいなと、Aちゃんから学びました。
中学生になり、Aちゃんは吹奏楽部で素晴らしい友達に恵まれ、ハキハキとした元気な女の子に成長しました。
合唱コンクールでピアノの伴奏に選ばれ、自分を楽しそうに表現している彼女の姿を見て、感激で胸がいっぱいになると同時に、その成長ぶりを頼もしく感じました。
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