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ショパンの心臓は○○○の中

今日は作曲家
フレデリック・フランソワ・ショパンの命日です。

1849年
今から170年以上前の今日10月17日
ショパンは亡くなりました。

死因は肺結核だといわれています。

ショパンの心臓は
ポーランドの首都ワルシャワにある
聖十字架教会の柱の中に埋葬されています。

これには
ショパンのある強い思いがあるのです。

それは
生まれ育ったポーランドへの愛

ショパンが最後にポーランドを離れたのは20歳の時。

オーストリアの首都ウィーンに行きました。

音楽の都ともいわれたところです。

当時のポーランドは
ナポレオン戦争に敗れて
ロシアに支配されていました。

支配下であっても憲法などは尊重される約束でしたが
それは守られることなく
市民の不満も大きくなってきたという情勢の中
ショパンの将来を思った両親がウィーンに出したのです。

ショパンが馬車でウィーンについて間もなく
市民が武器をもってロシア軍をワルシャワから追い出す
という暴動がおきました。

でもショパンは
ショパンの将来を思い
お金の準備など必死の思いで送り出してくれた
両親のことを考え
ポーランドには帰りませんでした。

辛い思いをバネに
必死で演奏活動に取り組みます。

しかし
当時ショパンがいたオーストリアはロシアの同盟国。

ポーランド人のショパンをよく思わない人が多く
演奏活動は上手くいかず
私生活でもつらい思いをします。

そこで
ポーランド人も多い
フランスのパリに行くことを決意し出発。

その移動中のドイツで
ワルシャワがロシア軍に攻め落とされたことを知ります。

幸い
ショパンの家族や友人たちは
みんな無事でした。

その時に作曲されたのが「革命のエチュード」
ショパンの作品にしては珍しく
とても激しい曲です。


当時パリは
ウィーン以上の音楽の街。

リストやメンデルスゾーンなど
同年代の才能ある音楽家たちとの交流の中で
ショパンの才能はますます磨かれていきました。

その才能が認められ
ロシア皇帝つきの主席ピアニストへのお誘いがきます。

でも
ロシアはポーランドを攻め落とした国。

ショパンは断ります。

そして
ロシア大使館での
パスポートの更新もせず
ポーランドに帰れなくなってしまったんです。

そこには
祖国ポーランドを思う様々な思いがあったのだと思います。

若い頃から体の弱かったショパンは
大量の血を吐き
39歳で亡くなります。


亡くなる間際
ポーランドから駆け付けた姉に

「死んだらせめて心臓だけでもポーランドに持ち帰ってほしい」

とお願し、

姉はアルコール漬けにしたショパンの心臓を入れた瓶を
スカートの中に隠し
必死の思いで持ち帰りました。

自分はポーランドに帰ることは出来なかったけど
せめて心臓だけは。

ショパンのポーランドに対する強い愛が感じられますね。


25年前。

ポーランド国立ショパン音楽大学の
夏期ゼミナールでピアノを学んでいた間に
ショパンの心臓が埋まっている柱のある教会にも行きました。

聖十字架教会。

ショパンの心臓がある柱の前にも立った時
なんともいえない思いでドキドキしたのを覚えています。

ショパンの曲には
ポーランドへの思いもたくさん込められてるのでしょうね。


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