12月30日生まれの作曲家
今日はカバレフスキー(1904年生まれ)の誕生日です。彼は、20世紀のロシアからソ連の時代を生きた人ですね。
カバレフスキーは、数学者であった父親をもって、ロシア帝国時代のサンクトペテルブルクで生まれました。両親は、息子にも数学の道を歩んでほしいと思っていたらしいのですが、カバレフスキー自身は、数学よりも音楽や美術に興味があり、詩を作るのも好きだったそうです。
言う間でもなく、サンクトペテルブルクはロシア帝国の首都ですが、カバレフスキーが1歳の時に「血の日曜日事件」という暴動が起き、ロシア帝国は不安な時代へ突入することになります。
街の名前が「ペトログラード」に変わったのは、第1次世界大戦が始まった11歳の時で、ロシア革命が起こったのは1917年、つまり、カバレフスキーが13歳の時なのです。
多感な少年期に多くの銃声を聞くことを余儀なくされ、街のあちこちに怪我人や死者が横たわっているのを見ざるを得ないことは誰も望まない事ですが、彼は不運なことに、武器を持った大勢の兵隊達の姿を見る運命から逃れることは出来ませんでした。
混乱の時代を経て、1022年になってから、やっと国は「ソビエト連邦」として動き出します。そのとき、カバレフスキーは既に18歳になっていました。
カバレフスキーだけでなく、国民全体が、これからの祖国の行く末を複雑な思いで見守っていたに違いありません。
街の名前がレニングラードに変わったのは、彼が20歳の時です。革命を指導してきたきたレーニンが亡くなり、その名前に因んで「レニングラード」と命名されたことは、皆さんご存知のことでしょう。
レーニンの死後スターリンが台頭し、政敵トロツキーを追い出して、独裁政治を始めましたね。
国家が激動する中のあっても、カバレフスキーは尚、音楽の勉強を続け、21歳の時にモスクワへ移り住み、遂にモスクワ音楽院入学を果たします。
映画館ではBGMとしてピアノを演奏するアルバイトをしていた学生時代を経て、彼は、卒業後に、プロコフィエフ、ショスタコーヴィチ、ハチャトゥリアン、ミャスコフスキー等と共に活躍することになります。
彼は28歳の若さで「モスクワ音楽院の助教授(准教授)」となり、後進の指導に当たると同時に、音楽出版社でも仕事をするまでになっていました。
ところが・・・・
第2次世界大戦が始まったのは1939年、カバレフスキー35歳の時でした。彼は、モスクワ音楽院の教授に昇進していました。
実は、この大戦中に、カバレフスキーは共産党に入党していたという事実が確認されています。もしかしたら、彼の入党は、「共産主義に傾倒した」というより、「エリート街道のレールに乗った」と解釈した方が適切かも知れません。
1948年、44歳の時に「ジダーノフ批判」の標的にされましたが、彼が所属する「作曲家連盟」の中で、彼が実力者であったことが認められていたため、究極の批判からは逃れることが出来ました。
独裁政権下においては、他の作曲家同様、カバレフスキーは国家を称揚する曲、すなわち「社会主義リアリズム」という音楽を作らざるを得ませんでしたが、それが彼の本意であったか否かについては断定できません。
カバレフスキーは、子どものために演奏の平易な曲も多数創作しました。また、彼は、音楽学校の若い生徒たちの指導に非常に熱心でした。
彼の指導法と子どものためのピアノ曲は高く評価され、音楽教育に関する彼の著作は海外でも出版されました。
・・・1950年に、彼の作曲の師であったミャスコフスキーが亡くなりました。
・・・1953年、多くの芸術家を苦しめたスターリンが亡くなりました。
何の偶然か、同日に、プロコフィエフも亡くなってしまいました。
・・・そして、1975年、2歳年下のショスタコーヴィチが亡くなりました。
・・・1978年には、ハチャトゥリアンが亡くなりました。
2度の世界大戦、米ソ冷戦、アフガニスタン侵攻と、戦争続きのソ連の中にあって、音楽界ではトップクラスの権力を持っていたカバレフスキーは、このような動乱の中で音楽活動をした人なのです。
ですから、「うまく時代に乗るべく社会主義に歩調を合わせて、風見鶏的な平易な音楽ばかり作った人である」と簡単に言ってしまう人の意見には、私は簡単に賛同できません。
1985年、ゴルバチョフ氏が書記長に就任しましたね。すると、彼はさっそくペレストロイカを提唱し、行き詰まっていたソ連に、徐々に回復する兆しが見え始めました。
カバレフスキーは、それから2年後の1987年に、81歳の生涯を閉じました。
現在、カバレフスキーの作品に取り組んでいる生徒さんには、広い視野と社会的背景に対する認識のもとに、曲を解釈して欲しいと願っています。
同作曲家によって書かれた「ピアノコンチェルト」で「ソリスト」の切符を手にした生徒さんについては、誠にお目出とうございました!今後とも、公の場でオーケストラと一緒に演奏する機会を楽しめますように!
カバレフスキーは、数学者であった父親をもって、ロシア帝国時代のサンクトペテルブルクで生まれました。両親は、息子にも数学の道を歩んでほしいと思っていたらしいのですが、カバレフスキー自身は、数学よりも音楽や美術に興味があり、詩を作るのも好きだったそうです。
言う間でもなく、サンクトペテルブルクはロシア帝国の首都ですが、カバレフスキーが1歳の時に「血の日曜日事件」という暴動が起き、ロシア帝国は不安な時代へ突入することになります。
街の名前が「ペトログラード」に変わったのは、第1次世界大戦が始まった11歳の時で、ロシア革命が起こったのは1917年、つまり、カバレフスキーが13歳の時なのです。
多感な少年期に多くの銃声を聞くことを余儀なくされ、街のあちこちに怪我人や死者が横たわっているのを見ざるを得ないことは誰も望まない事ですが、彼は不運なことに、武器を持った大勢の兵隊達の姿を見る運命から逃れることは出来ませんでした。
混乱の時代を経て、1022年になってから、やっと国は「ソビエト連邦」として動き出します。そのとき、カバレフスキーは既に18歳になっていました。
カバレフスキーだけでなく、国民全体が、これからの祖国の行く末を複雑な思いで見守っていたに違いありません。
街の名前がレニングラードに変わったのは、彼が20歳の時です。革命を指導してきたきたレーニンが亡くなり、その名前に因んで「レニングラード」と命名されたことは、皆さんご存知のことでしょう。
レーニンの死後スターリンが台頭し、政敵トロツキーを追い出して、独裁政治を始めましたね。
国家が激動する中のあっても、カバレフスキーは尚、音楽の勉強を続け、21歳の時にモスクワへ移り住み、遂にモスクワ音楽院入学を果たします。
映画館ではBGMとしてピアノを演奏するアルバイトをしていた学生時代を経て、彼は、卒業後に、プロコフィエフ、ショスタコーヴィチ、ハチャトゥリアン、ミャスコフスキー等と共に活躍することになります。
彼は28歳の若さで「モスクワ音楽院の助教授(准教授)」となり、後進の指導に当たると同時に、音楽出版社でも仕事をするまでになっていました。
ところが・・・・
第2次世界大戦が始まったのは1939年、カバレフスキー35歳の時でした。彼は、モスクワ音楽院の教授に昇進していました。
実は、この大戦中に、カバレフスキーは共産党に入党していたという事実が確認されています。もしかしたら、彼の入党は、「共産主義に傾倒した」というより、「エリート街道のレールに乗った」と解釈した方が適切かも知れません。
1948年、44歳の時に「ジダーノフ批判」の標的にされましたが、彼が所属する「作曲家連盟」の中で、彼が実力者であったことが認められていたため、究極の批判からは逃れることが出来ました。
独裁政権下においては、他の作曲家同様、カバレフスキーは国家を称揚する曲、すなわち「社会主義リアリズム」という音楽を作らざるを得ませんでしたが、それが彼の本意であったか否かについては断定できません。
カバレフスキーは、子どものために演奏の平易な曲も多数創作しました。また、彼は、音楽学校の若い生徒たちの指導に非常に熱心でした。
彼の指導法と子どものためのピアノ曲は高く評価され、音楽教育に関する彼の著作は海外でも出版されました。
・・・1950年に、彼の作曲の師であったミャスコフスキーが亡くなりました。
・・・1953年、多くの芸術家を苦しめたスターリンが亡くなりました。
何の偶然か、同日に、プロコフィエフも亡くなってしまいました。
・・・そして、1975年、2歳年下のショスタコーヴィチが亡くなりました。
・・・1978年には、ハチャトゥリアンが亡くなりました。
2度の世界大戦、米ソ冷戦、アフガニスタン侵攻と、戦争続きのソ連の中にあって、音楽界ではトップクラスの権力を持っていたカバレフスキーは、このような動乱の中で音楽活動をした人なのです。
ですから、「うまく時代に乗るべく社会主義に歩調を合わせて、風見鶏的な平易な音楽ばかり作った人である」と簡単に言ってしまう人の意見には、私は簡単に賛同できません。
1985年、ゴルバチョフ氏が書記長に就任しましたね。すると、彼はさっそくペレストロイカを提唱し、行き詰まっていたソ連に、徐々に回復する兆しが見え始めました。
カバレフスキーは、それから2年後の1987年に、81歳の生涯を閉じました。
現在、カバレフスキーの作品に取り組んでいる生徒さんには、広い視野と社会的背景に対する認識のもとに、曲を解釈して欲しいと願っています。
同作曲家によって書かれた「ピアノコンチェルト」で「ソリスト」の切符を手にした生徒さんについては、誠にお目出とうございました!今後とも、公の場でオーケストラと一緒に演奏する機会を楽しめますように!
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