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南蛮船とピアノ

「ピアノはいつから日本にあったか?」という質問に多くの人々は「明治時代」とお答えになります。

1600年頃、天草の画学舎(キリシタンの美術学校)で、パイプオルガンが製作されていたことはご存知でしたか?黒鍵の部分はべっ甲を使ってあるそうです。現在、天草コレジョ館には、それを復元した物があります。当時の欧州ではパイプ部分にブリキが使われていましたが、日本製の物は竹が用いられています。

その頃の天草地方にはキリスト教徒が多く、宣教師を養成するための学校も設立されました。かの有名な「天正遣欧少年使節」の4人の若者(伊東マンショ、千々石ミゲル、原マルチノ、中浦ジュリアン)が渡欧したのは1582年のことです。

彼らはスペイン国王やローマ教皇と会っており、キリスト教への信仰心のみならず、欧州の文化に対する理解を深め、8年後に帰国したのですが、この時の日本には、既に「伴天連追放令」が出されていました。そのため彼らは、苦難に満ちた人生を歩むことを余儀なくされたのです。

彼らが日本に持ち帰った物の中で、最も重要なのは、「グーテンベルク印刷機」と言えるでしょう。これによって、日本語で書かれた書物の活版印刷が行われるようになったからです。

使節団が持ち帰った物の中には、「ルネサンス・リコーダー」「ハープ」「ヴァージナル」などの古楽器が含まれており、1591年に彼らは、京都・聚楽第(じゅらくだい)にて、豊臣秀吉のいる席で、それらの楽器によるジョスカン・デ・プレ (1450年/1455年? - 1521年8月27日) の作品を演奏し、秀吉はそれを大層気に入ったとされています。

伴天連追放令が出されたのは1587年ですから、何故そのようなことが出来たのか知るべく、日本史を紐解いてみました。すると、当時はキリスト教と貿易がセットになっていたため、スペイン、ポルトガルの宣教師さん達の布教活動を止めることが出来なかったこと、大名でない一般庶民の信仰は禁止されてなかったことなどが分かってきました。

秀吉がキリスト教徒の弾圧を強化し始めた切欠となる出来事は、1596年のサン・フェリペ号事件にあります。禁教令が出されたのは更に後のことになりますから、使節団の4人は帰国後すぐに苦境に陥ったわけではないようです。

ところで、楽器の話はちょっと横に置いておく(笑)ことにして、南蛮船の行き来によって日本に入ってきた物と言えば、私は「カステラ」「パン」「カルメラ」「ボーロ」「カルメラ」といった食べ物を思い浮かべます。日本に初めて「南蛮柿(イチジク)」を持ってきたのは、この時期の宣教師さんなのだそうですよ!


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