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パリのドイツ人 

皆さん、こんにちは!今日は昨日に続いて、ブルグミュラーについてお話したいと思います。

ブルグミュラーは17歳のときに、デュッセルドルフ市音楽監督であった父アウグストに先立たれます。父の後継の職に就くことを望んだようですが、思うように行かず、アルザスに移り住み、チェロ奏者として生計を立てるようになりました。

26歳になった頃、パリに移住し、裕福な家庭の子ども達に音楽を教えることで良い評判を得、上流階級の家庭音楽会やパーティーのために多くのピアノ曲を創作しました。彼は、36歳のときにフランスに帰化しています。

ブルグミュラーの音楽活動に大きな飛躍を与えたのは、1843年7月17日、パリ・オペラ座にて、ロマン派的バレエ音楽「ペリ」初演でした。これはロンドンでも上演され、華やかな成功を収めたことを、当時の雑誌記事などから知ることが出来ます。この時、ブルグミュラーは37歳になっていました。

私たちがよく見る「ブルグミュラーの肖像画」は、パリ国立図書館が所蔵している物ですが、これはこの時期、つまりブルグミュラーが第一線のバレエ音楽分野で活動していた頃のものと考えられています。

このように華々しい成功を収めたブルグミュラーですが、次第に、後進の指導に仕事の重きを置くようになっていきます。

日本では、時々「ブルグミュラー」という名前が代名詞のようになっている「25の練習曲Opus 100」や、「18の練習曲Opus 109」、「12の練習曲Opus 105」はその時期に創作されています。それらは全て、彼が45歳のときに書かれていることから、非常に短期間のうちに作曲されたことが分かります。

生徒の皆さんが、「ブルグミュラー」という言葉を、1冊の教則本の同義語として捉えないで、同氏が400曲にも上る小品群を創作した音楽家であったことを、正しく認識して欲しいと思います。

それらの作品の出版記録より、創作の事実を確認することは出来ますが、入手出来る形で流通している曲は限られています。

「25の練習曲」は、ブルグミュラーがボーリューという村で隠遁生活を始める前に、パリで作曲されました。19世紀のパリ文化がどのようなものであったのかなど、生活や文化と結び付けて曲を解釈してみると、イメージが広がり、より楽しく練習が出来ると思いますよ!


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